歩きにすと

歩くことがすき。水系スピリチュアル。会津近隣のパワースポット巡りと健康についてのブログです。

【歴史】束松洞門と束松峠。茶屋跡の展望台から見る越後街道。会津を離れる者が涙する場所に立ってみた。

プチ探検家の花子(@a10hon51)です。

 

福島県坂下町。越後街道にあった束松峠。村人たちが手彫りで掘った束松洞門と、峠にあった会津を一望できる展望台を今回ご案内します!(*´艸`) ムフフ。今回は私の友人『旅の師匠』と旅をしています。

 

束松峠と束松洞門

束松洞門(たばねまつどうもん)。
Instagramで見かけて、ずーーーーっと気になっていた手彫りのトンネル。そこに連れて行ってもらいました。

ここは昔、越後街道だったみたい。

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毎年、会津坂下町ではこの手彫りのトンネル(束松洞門)のある旧道を歩くウォーキングが開催されています。会津坂下町→西会津まで歩く片道6㌔コース。

 

下の地図。句碑の立っている現在地から束松洞門の看板までの道。今回は超オフロードを強行突破で車で来てしまいました💧。( ´艸`)笑

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ここが洞門看板。手彫りのトンネル(洞門)は、236mあります。

 

束松洞門の歴史的価値

束松洞門とは…


案内看板の内容 ---------束松洞門----

 

束松洞門は、ここ天屋側入り口から軽沢入り口まで、全長約240mのトンネルで、明治20年(1887)地元民の努力によって貫通しました。

 

世は明治と改まると、世の中の進歩に従って人や物の交流が盛んになってきました。それまで人や馬の背によって運ばれていた物資や人は、馬車や荷車等によって大量に運ばれることとなります。

 

会津五街道のひとつ越後海道は、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあり、幕府の佐渡路でもありましたが険しい束松峠は馬車の通行を阻むものでした。

 

このため明治10年には鐘撞堂峠から西羽賀・野沢芝草に通ずる裏街道が計画され、明治15年には時の県令三島通庸による会津三方道路越後街道が藤峠経由となってしまいました。

 

かつて宿駅として繁盛していた舟渡・片門・天屋本名・軽沢などの住民は、たちまち生活に困ってしまいました。

 

『夢よもう一度』
住民は洞門を掘ることを思いつき、明治13年のころから測量を開始し、幾多の紆余曲折を重ねて、明治27年 新道も完成し8月7日 落成祝賀会が挙行されました。 (以上「長谷川利義松言行録」による)

 

洞門入り口には茶屋も設けられ、馬車も人力車も通る道となり、賑わいを取り戻したのも束の間、鉄道の開通、自動車の普及はこの洞門道を不要としてしまいました。

 

それでも昭和20年ころまでは修繕を重ねながら通行できましたが、今では崩落著しく通行不能となってしまいました。

 

しかしながら、この洞門に注いだ沿道住民の熱意と団結の力は脈々として今に引き継がれています。

高寺地区地域づくり協議会


 

看板から100mも歩かず、洞門に着きます。

✨洞門到着✨

中に入って自撮りしたかったのですが…。入口に崩落個所があるため危険!と同行者の師匠になだめられ、泣く泣く、入口付近での撮影のみ。

洞門の中は所々、崩落しているようです。ザックリこんなかんじ。

 

束松峠 峠の茶屋跡、展望台

洞門の看板付近に駐車し、次は展望台を目指し歩きます。

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洞門看板から茶屋跡展望台歩いて15分ほど。オフロード強行すれば、展望台まで車でも行けないことはないです笑。

 

茶屋跡が見えてきました。

12月の初旬に行ったの。落葉後で歩く途中もかなり見晴らしが良くて、山道途中でも会津盆地が見渡せ気持ち良かったです。

 

磐梯山もばっちり見える。昔の人々は、磐梯山を見ながらお城を目指したのかと思うと、感慨深かったです。

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展望台からの見晴らし抜群。また行きたい場所のひとつになりました。

展望台からの眺め。絶景(≧▽≦)

 

ここが峠の茶屋跡


 

峠の茶屋跡 -----看板内容----

標高465メートルのこの東松峠頂上には昭和30年代まで2軒の茶屋があった。「寛永4(1792)片門・本名の両村よりこの頂に茶屋2軒」を構え、お助け小屋を設けて、険阻なこの峠を通る人の便宜を図った。(『新編会津風土記』)

 

十遍舎一九の『奥州道中金草鞋』に記されているように、焼き鳥・あんこが名物であった。


茶屋からは高寺山塊を隔てて、会津盆地が一望され、彼方に秀峰磐梯山を望むことのできるこの峠は、会津に向かう人にとっては、はじめてみる若松城下であり、去る者は、別離の涙を流す峠であった。

 

「戊辰戦争敗軍の将」秋月悌次郎が越後に西軍参謀奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠から遥かに若松の城下を望み
「行くに輿無く帰るに家なし」
と、会津の行く末を想い、
「いづれの地に君を置き、また親を置かん」
と働哭の詩『北越潜行の詩』を詠じたのもこの峠であった。

会津坂下町教育委員会

 


茶屋跡の看板にも書かれていますが、ここは「会津を離れる者が涙した」であろう場所。江戸の時代の人の気持ちになると、この景色に涙するのがわかる気がします😢。

束松峠ウォーキング

詳細内容は下記にリンクを貼っておきます。束松峠は「束松峠を護る会」によって整備管理されているみたいです。

昔、宿場町として栄えた会津坂下 本名地区。どの家も家構えが立派です。

実際に、束松峠付近を歩いてみると、旧道にしてはかなり広い。参勤交代に利用された街道であったことを想像させる峠道でした。

 

【参考サイト】

・束松峠ウォーキング ヤマレコ
                                  行程予定表

・福島県の文書  束松峠レポート

・束松峠を護る会 束松峠を守る会 : まち冒険

・新日本歩く道紀行 束松峠

 

【過去記事】